インド百景。

坂田マルハン美穂のインド生活通信

 
 

●日本からの帰路、招待のメールを受け取る。動揺する。興奮する。

その連絡を受けたのは、福岡からバンガロールへ戻る途中の経由地、シンガポール空港だった。シンガポールに降り立った直後、いつものトランジットホテルでマッサージを受け、シャワーを浴び、軽く食事を済ませてコーヒーを買い、ラップトップを広げ、インターネットに接続した。

そのとき、一通の、一見して重要度の高い件名のメールが目に飛び込んだ。真っ先にクリックした。そこには、天皇皇后両陛下にお目にかかれる茶会への招待に関することが記されていた。驚きのあまり、何度も読み返した。わたしが招かれたということに、ともかく驚いた。なぜ、功労者でも著名人でもない、フリーランスのわたしが含まれているのか。他には、どんな人が招かれているのだろう。

誰かに尋ねたいところだが、「配偶者以外には他言無用」とある。招待客の選出には、色々な事情がありそうなことは、たやすく察しがつく。自分ですら驚いているのだから、世間に「なぜ、坂田が?」といぶかしく思う人もいるだろう。誰かに聞くわけにもいかない。

招待状には、夫婦揃っての出席が促されている。わたしは、何をおいてもチェンナイへ赴くと即決したが、夫はちょうどそのころ、南アフリカ旅行の予定が入っている。彼の予定を確認すべく、シンガポール空港からバンガロールへ電話をする。しかし夫は、わたしの興奮とは裏腹に、非常に淡々とした様子で、「南ア出発の前日だけど、ぎりぎりで行けるかも。調整するよ」とあっさりしている。さほど驚いた様子もない。

天皇陛下、皇后陛下にお目にかかれるということが、どれほどありがたいことなのか、この心境は日本人と、ごく一部の外国人にしか理解できないのかもしれないということを、このあと、夫とのやり取りの中で、痛感するのだった。


●ドレスコードに、頭を抱える。何を着て行けばよいのだ?

驚きと喜びの直後に、現実的な問題が降り掛かってきた。ドレスコードだ。招待状には、通常の丈のワンピース、ツーピース、アンサンブル・スーツなどを着用するよう記されている。露出度が高いものや、透けるような素材に問題があるというのはわかるが、パンツ・スーツもだめだという。更には、黒、濃い灰色、濃い紫一色ものも避けねばならない。

……ない。

該当する服を、持っていない。

そもそも、通常丈(膝下)のスカートすら、持っておらず、従ってはストッキングさえない。最後にストッキングをはいたのがいつだったか、覚えてさえいない。

もう2日早ければ、日本でそれらしき衣類を調達できたものを、インドでは望むものが手に入りそうにない。これは布を購入して仕立てるしかないな……と、あれこれ考えているうちにも、あっというまに搭乗時刻が過ぎていた。

ゲートへと急ぎ足で向かう途中、靖国神社で買った菊の御紋のお守りの鈴がチリンチリンと鳴り続けた。その音を聞きながら思った。このお守りのご利益だろうか。だとしたら、強烈な威力を持つお守りだ。

得も言われぬ感慨が、胸を満たした。


●ムンバイで布を買い、仕立てるつもりが……20年前のドレスを発掘。

日本からバンガロールへ戻って数日後、ムンバイへ2泊3日で赴くことになっていた。ムンバイにはお気に入りのテキスタイル店があるので、そこで生地を買おうと決めた。ストッキングはインドで探すのは難しそうだから、早速、海外通販にてネットショッピング。約1週間後には到着するとのことで、十分間に合う。便利な世の中である。

靴は、5、6年前にニューヨークで買ったものがあるし、パンプスならインドでも買える。バッグもある。ともかく、問題は服である。ムンバイへ赴く前夜、荷造りをしながら、ふとひらめいた。そういえば、あの服があったではないか!

ダイニングルームの、ロフトの階段を駆け上がる。そして、冬のコートやジャケットなど、インドでは着用しないが一応保存している服を収納しているクローゼットを開いて、探す。

あった! これ、これ。ぴったりじゃない!

急いで着てみる。……取り敢えず、はいった!

映像の中で、天皇陛下は国際親善の重要性を説かれている。

「国際親善の基は、人と人との相互理解であり、そのうえに立って、友好関係が築かれていくものと考えます。国と国との関係は経済情勢など良い時も悪い時もありますが、人と人との関係は、国と国との関係を越えて、続いていくものと思います」

今回の御拝謁を巡っての一連の心の動き、そして両陛下の御活動の一端を、今更のように知ったことで、わたし自身が、自らの将来の方向性について、よりいっそう真摯に向き合い、丁寧に生きていかなければとの思いを強めた。

このような機会を与えてくださった方々に、心から感謝すると同時に、この経験を必ず、意義ある未来に結びつけるべく、これからの人生、精進したいと思っている。

上の写真が、そのドレス(ワンピース)だ。わたしの好きな、百合の花があしらわれている。

これは、今から20年ほど前、亡父が買ってくれたものだ。

当時東京に住んでいたわたしが、福岡へ帰省していた時のこと。確か家族で、ホテルニューオータニに赴き、食事をしたのだと思う。そのとき、ニューオータニの中にあるMs. REIKOというブティックに立ち寄った。当時、わたしの母が気に入っていたブランドだが、20代のわたしには、どうにもおばさん臭いデザインであった。

しかし、その日、ブティックでこのドレスを見つけた両親から、「似合うから買いなさい」と、しきりに勧められた。わたしが、「いらない」と、繰り返したにも関わらず。

そんなことは、あとにも先にもこのとき限りだった。

実は当時、父親の事業はうまくいっておらず、経済的にも不安定だった。だから尚更、なにかを買ってもらいたいという欲求などなかった。そもそも、20代のわたしにとって、その高価な服は身の丈に合っていなかったし、着て行く場所もなかった。

そんな次第で、買ってはもらったものの、案の定、袖を通す機会はなく、歳月は流れに流れた。

30代に入り、ニューヨークへ渡り、アルヴィンドと出会った。いつの年だったか、比較的フォーマルなクリスマスパーティに招かれた折、着てみようかと試したことがあった。しかし、夫から「それ、老けて見えるからやめて」と言われ、「そうだよね、おばさんっぽいよね」と同意して、着替えたのだった。

以来、ニューヨーク、ワシントンD.C.、カリフォルニア、インド……と、このドレスは、わたしと一緒に、旅をしてきた。他の服はどんどん処分したけれど、これだけは、一緒だった。

そのドレスが、ついには20年の眠りを破り、出番を迎えた。ずいぶん長いこと、お待たせしたものだ。48歳のわたしには、最早、「老けて見える」もなにもなく、普通に、似合うようになっていた。

夫に見せたところ、「オールドファッションだけど……悪くないね」と、前回よりは遥かに、好意的である。もう、服を仕立てる必要はない。これを着ようと決めた。 亡父もきっと、喜んでいることだろう。

●夫の先祖と、我が先祖。形見の品々を用意して、準備は万端。

このドレスには、どんなジュエリーを身に着ければいいだろう。パールが上品かしら、それとも……と思っていたときに、またひらめいた。ダディマ(アルヴィンドの父方の祖母)の形見のジュエリーセットがぴったりではないか、と。

祖母が結婚当時に買ったという約80年前のもの。わが守護石でもある、エメラルドとパールのジュエリーだ。身につけてみれば、インドものにしては華美すぎず、いい感じである。

腕時計は、先月、日本へ一時帰国した際に引き取ってきた、我が父方の祖父が約40年前に購入したSEIKOのHI-BEAT。フレームが18金の、立派な腕時計である。ベルトは銀座の三越にあるフランスの時計ベルト専門店、カミーユ・フォルネで新調した。

バングルは、普段から身につけている義母の形見。今から45年ほど前、義理の両親が結婚した際に義母が身につけていた22金のバングルである。

そしてハンドバッグは、亡父が生前、母に贈っていたものを、わたしが一昨年、譲り受けていたものを持って行くことにした。

唯一、靴だけは、自分で購入したもの。以前ニューヨークで見つけた、イタリア製の履き心地がよい靴だ。しかしこれも、インドでは履く機会がほとんどなく、ずっとシューケースの奥で眠っていたのだった。


●なにかと気ぜわしく、心が落ち着かない約1週間。

ムンバイから戻って以降は、OWCのクリスマスバザールにミューズ・クリエイションが出店、出演することから、準備などに追われていたが、チェンナイへのフライトの予約や、ホテルの手配はすませておいた。

本当は、夫が南アフリカに行っている間、久しぶりにどこかへ「一人旅」をする予定でいたのだが、この茶会の件が舞い込んで以来、とても一人旅を計画する精神的余裕がなくなってしまった。ともかくは、この日を終えなければ、次に進めない。それくらいに、わたしにとっては、重要な一大イヴェントであった。

無事にOWCのクリスマスバザールを終えた日、天皇皇后両陛下が、インドのニューデリーに到着された。そのころから、数日後に控えた茶会に向けての緊張感が、急に高まり、心が湧き立つような状態が続いた。

チェンナイへのフライトは、ちゃんと時間通りに到着するだろうか。風邪などを引いたりしないだろうか……などと、今までどんな旅のときにも心配しなかったようなことが、急に気になり始めた。

そんなわたしの様子をして、夫はといえば、「なに、そんなにナーヴァスになってるの? 落ち着こうよ、ミホ」と相変わらずである。

「天皇陛下と皇后陛下にお目にかかれるということは、格別なことなのよ。緊張して、あたりまえじゃない!」

と力説すれども、理解してもらえない。それは思えば仕方がないことである。インド人にとって、いや、日本人以外の他国の人にとって、天皇皇后両陛下に相当するような人物があられる国は、たぶんそうたくさんはないはずだ。

「マンモハン首相とか、オバマ首相に会う気分とは違うよね」

という夫に、

「全・然、違・い・ま・す!」

と、半ば苛立ちながら、返答するしかない。

日本人なら言わずもがなわかるであろう、 天皇皇后両陛下にお目にかかることは、 一国の首相と面会するという心持ちとは、まったく性質を異にするということを。

思えば数年前、東京で開催された日印グローバルパートナーズサミットに、わたしは招かれてもいないのにわざわざ一時帰国し、自ら高額な参加費を支払って出席した。

晩餐会の席では、VIPでもないのに、 VIP席の近くに座り、ガードが緩かった安倍元首相(当時)や鳩山元首相に話しかけ、名刺交換までし、更には2ショットで写真さえ撮ってもらうなど、なかなかに度胸のある行動をとったものだ。

年齢と経験を重ねるとともに、度胸がついてきたわたしであるが、今回の件を前にしては、すべてが「振り出しに戻る」ような、純粋な緊張っぷりである。

畏れ多い、という言葉が先に立ち、お目にかかれる場を想像するだけで、鼓動が高まり、目頭が熱くなった。なんだかわたしも、歳をとったなあ、と思うと同時に、自分の中の、とてつもない日本人っぷりを再認識した。

さて、出発を数日後に控えた月曜日の午後、夫から「明日から急にムンバイ出張が入った。1泊2日の予定だ」との電話があった。事態が煩雑になってきた。水曜の深夜、ムンバイからバンガロールに戻り、木曜の早朝バンガロールからチェンナイに飛び、金曜の早朝チェンナイからバンガロールに戻り、同日の深夜、南アフリカに飛ぶ。

考えただけで、ストレスフルだ。

そこで思いついた。ムンバイからバンガロールに戻らず、直接チェンナイに入ってもらうことにしたのだ。そうすれば、わたしも一日早くチェンナイに入れる。当日、飛行機の遅れなどを心配する必要もなくなる。チケットの予約変更などに少々手間取ったものの、無事に夫を火曜日に送り出し、わたしはチェンナイへの荷造りをすると同時に、夫の「南アフリカ向け」の荷造りも同時進行で行う。

無闇に、胸がドキドキしてくる。

●そして3年ぶりのチェンナイ。街に日章旗は翻らず、いつも通り。

最後にチェンナイを訪れたのは3年前。視察旅行のコーディネーションで訪れたときだった。当時はまだ工事中だった新空港が完成し、非常に広々と快適な空港になっている。

プリペイドのタクシーカウンターも整備されていて、つつがなく6時間の予約をし、支払いを済ませ、クルマをピックアップすることができた。

この日、天皇皇后両陛下もチェンナイ入りをすることから、街には日章旗が翻っているのではなかろうか、と思っていたのだが、どこを見ても、日の丸の一つも目に入らない。現在、選挙戦の真っ最中らしく、とてつもなく派手な選挙のポスターが、町中を埋め尽くしていた。

ニューデリーでは盛大に歓迎されたとのニュースを目にしていただけに、この、あまりにも「通常通り」のムードが、なんだか寂しい。セキュリティの都合上、あまりアピールをしていないのだろうか、などと思い巡らせているうちにも、ホテルに到着した。

なお、茶会の会場は、市街中心部にあるタージ・コロマンデルであったことから、無理を承知でタージ系列のホテルの予約を試みたが、案の定、すべての客室がブロックされていた。従っては、会場からほど近い場所にあるハイアット・リージェンシーに予約をいれていたのだった。

●チェンナイで最もお気に入りの場所、アメジストへ直行。

到着した日は、チェンナイの市街を少し巡ったが、そのことを記すのは、今回は割愛しておく。ともあれ一カ所、アメジスト AMETHYSTと呼ばれる、いくつかのブティックやカフェレストランが共存するお気に入りの場所に赴いたことだけ、記しておこう。

ここの緑に囲まれた心地のよいテラスで、遅めのランチをとった。フィッシュ&チップスが思いのほかおいしくて、幸せであった。普通なら、軽く白ワインでも飲みたいところだが、この日はしかし、お酒を飲むような気分にはなれず、ただただ、心が浮ついている。

意識的にしっかりと咀嚼しながら食事をし、フレッシュライムソーダを飲み、明日、万が一、天皇陛下、もしくは皇后陛下にお声をかけられた際、なんと答えようか、と思いを巡らす。なるだけ簡潔に、自分がしていることを伝えるための、短い文章……。

●準備万端。前日の朝、バンガロールを発って、チェンナイへ。

そんなこんなで、天皇皇后両陛下のご来印を契機に、過去の思い出を紐解くなど、センチメンタルな気分を高めつつ、チェンナイ行きの日を迎えた。

いつも利用するジェットエアウェイズ(厳密にはジェットコネクト便)のチェンナイ行きは、午前と午後遅めに到着する便が数本あるだけ。もしも当日、午前中の便を逃したら、午後5時過ぎの集合時間に間に合わない。それを考えると、前日に入ることにしてよかったなと思う。

そのことは、翌日、他の参加者の「チェンナイに至るまでのさまざまなドラマ」をお聞きして、実感したのだった。

せっかくだから早めに現地入りしようと午前中の便を選んだところ、バンガロール在住の日本人男性にお会いした。彼は、今回の件に関わる仕事のために、早めにチェンナイ入りをされているようである。

彼の話によれば、今回、日本人会や商工会の役員の方々と、その伴侶が招かれているとのこと。予想はしていたが、わたしは、ミューズ・クリエイションの活動をしているということで、招かれたのだと確信した。多分、今年の2月に地元のロータリークラブからいただいた国際親善賞も、影響していると察せられる。

レセプションを主催してくれた伯父と、12年前も今もさほど雰囲気の変わらない、つるんとした我が夫。

左は義姉スジャータの夫、ラグヴァン。奥から鋭い視線を飛ばしているのが、ヴァラダラジャン博士。

末期がんから一時復活している人とは思えない恰幅のよい我が父。そして、日本勢の圧倒的な顔の大きさ。もう少し低いヒールの靴を履くべきだった。

結婚式や、披露宴の際にはサリーを着たが、このレセプションではニューヨークで買っていたドレスを着用したのだった。当時のわたしは、長髪であった。

食事を終え、上階のブティックで服などを見るも、気もそぞろ。しかし、お気に入りのジャイプール発のジュエリーショップ、AMRAPALIでは、ちょっとした集中力で、商品に見入る。

と、これは! と思えるイアリングを発見。ナブラトナ・ストーンズがあしらわれた、かわいらしいイアリングだ。たいてい、ごっついデザインのものが多いのだが、これはかつて見たことのない上品さだ。約5年前に購入した指輪も同じAMRAPALIのものだから、お揃いになる。

「これだ!」と思うジュエリーに出合うことは、そうしばしばあることではない。もっとも、しばしばあっても困るので、滅多にないくらいがちょうどよいのではあるが。

「天皇皇后両陛下御拝謁記念」に、購入することに決めた。ルビーの赤が、あたかも日の丸の赤に見えるような気がしないでもない。

●夫もチェンナイ入り。ホテルのロビーで友人夫妻と遭遇。

さて、夕方早めにホテルの部屋へ戻る。やがて夕刻、夫がムンバイからチェンナイ入りし、ホテルのダイニングで軽い夕食をすませた。その後、ロビーを歩いていたときに、友人夫妻に出会った。日本人会会長のMさんご夫妻だ。彼らも来訪されるだろうとは思っていたが、同じホテルだとは当然、知らなかった。そもそも、他に誰が招かれていたのか、互いに確認することもできなかったから、ミューズ・クリエイションのメンバーであるMさんの姿を見たときには、ほっとした。

「明日、何着て行く?」などとの会話をして、ようやく、緊張の糸が解けたのだった。

なにしろ今回の件、本当に、アルヴィンド以外は誰にも話しておらず、日本の母にすら、伝えていなかった。母にあらかじめ伝えると、むしろ喜ばれすぎて、万一、実現しなかったときに落胆させることを恐れていたのだ。ともかくは、「絶対に確実なタイミングで知らせよう」と決めていた。つまりは茶会の会場に到着して初めて、電話をしたのだった。

そんなこともあり、この栄誉、感動を今ひとつ理解しきれない夫とのみ、情報をシェアし続けてきた数週間は、それなりに、ストレスフルであった。

なお、茶会は翌日午後6時からの開始だが、会場へは5時15分までに入場しておくよう指示されていた。とはいえ、ぎりぎりに到着するのも不安である。宿泊しているホテルから会場のホテルまでは数キロに満たない。普通なら15分もあれば到着する。しかし、セキュリティが厳しく渋滞しているかもしれない。ひょっとすると30分や1時間かかるかもしれない。そんなことを妄想しているともう、なにがなんだかわからなくなる。いったい何時にホテルを出ればいいのだ?

と、M夫妻が「3時15分から30分の間に出ようと思います」とおっしゃる。一緒に車で行きませんか、とお誘いくださった。それくらい早く出れば、確実すぎるほどに確実だ。

これはラッキーだ、と安心した。というのも、我が夫は、わたしが急かしても、絶対に早めに行こうとはしない男である。5時15分集合なら、4時45分に出れば十分だといいそうである。確かに、通常ならばそれには間違いないが、今回は、ともかく異例なのだ。

ホテルの部屋でやきもきしながら過ごすよりは、とっとと現地に赴いて、カフェでお茶でもしている方がよい。

どなたかと一緒なら、夫も時間を意識してくれるだろうし、「ミホはいつも、時間を気にし過ぎ!」などと言われないですむ。それにしても、この緊張感を夫婦揃ってシェアできるお二人を、このときばかりは、うらやましく思った。


●そしていよいよ、迎える当日。アルヴィンド、急に皇室の勉強。

そして遂には、その日の朝を迎えた。招待の知らせを受けてから数週間。長かった。朝は、さほど早起きの必要もないのに、早くに目が覚めてしまい、二度寝もできない。まだ寝ている夫を横目にラジオ体操をして身体を伸ばし、ゆっくりと湯船に浸かってリラックスし、一人でさっさと朝食をとりにゆく。

夫はわたしよりも1時間ほど遅れて一日を開始し、その後は、ラップトップに向かって仕事をしていた。なにしろ翌日の深夜より2週間余り海外に出るため、仕事が山積している様子。やはり、一旦バンガロールに戻らず、こちらに直行してよかった。

わたしはといえば、朝食を終えて出発するまでの午後3時まで、いったい何をしていたのだろう、というくらい、落ち着きがなかった。何をするにも集中できないので、ネットの動画で日本のテレビドラマを見たり、着て行く服やバッグの写真を撮ってみたり、雑誌を広げてみたり……。ランチはルームサーヴィスですませ、午後2時には準備を開始。改めてシャワーを浴び、髪の毛を入念にブローする。 夫はといえば、そのころになってようやく、Wikipediaで皇室についてを調べ始めた。

「Michikoは三島由紀夫と見合いをしてたの?」

「ねえ、エンペラー、エンプレスって、日本語でなんていうの?」

「ウェルカム、インディアって、日本語でなんていえばいいの?」

あああ、もう、静かにしてくれ!

「ようこそ、インドへ」と、教えたにも関わらず、

「ヨロシク、インドへ!」などと言い出したり、果ては、

「アケマシテ、オメデトウゴザイマス!」とか、「オタンジョウビ、オメデトウゴザイマス!」などと、知っている限りの祝福の言葉を並べ始め、わが神聖なる心持ちを悉く破壊する。こ、この男は……。

心底、パンチを食らわしたくなる。

(平常心、平常心……)と自分に言い聞かせ、まるで禊(みそぎ)でも行うかのように、静かに、丁寧に、何年ぶりかにストッキングを履くのだが、うまく履けず、やり直したりなどして手間がかかる。

そして3時には準備完了。夫は壊れたレコードのように、「ヨウコソ、インドへ!」を繰り返している。ああぁぁもう、置いていくよ、まじで。

そして3時10分。落ち着きのない妻は、部屋を出て、吹き抜けのフロアからロビーを見下ろす。と、案の定、早くもM夫妻はロビーのソファーに腰かけていらっしゃる。やっぱり日本人。嗚呼、同志よ! あなたがたも、いてもたってもいられないのですね。

アルヴィンドをせき立てて、3時15分ちょうどにロビーへ。

M夫妻とわたしの緊張感が伝染したのか、クルマに乗り込んだあと、アルヴィンドが急に真剣に、メモを取り出して、「テンノウヘイカ、コウゴウヘイカ、ヨウコソ、インドへ!」を練習しはじめた。

今更かよ! 

そんなうろ覚えでは、いざご対面の際に間違えてしまうこと必至。もう「ヨウコソ、インドへ!」だけでいいから、と諭す。

●かつて天皇陛下と何度かお目にかかっていた夫側の親戚のこと。

インドのご訪問に先立っての、天皇陛下のお言葉が、宮内庁のホームページに掲載されている。そこには、以下のような一文がある。

「私どもが建設の儀式に携わったインド国際センターは立派に完成し,運用されており,この度,再び訪問することになっています。かつて外務大臣の時にお会いしたムカジー大統領閣下やシン首相に再びお会いすることと共に,この度の訪問で楽しみにしていることの一つに挙げられます。」

このインド国際センターは、わたし個人にとっても、非常に思い出深い場所である。夫と結婚式を挙げるべく、ニューヨークから、初めてインドへと飛んだ2001年。日本の家族より一足先に夫の故郷であるニューデリーに到着したわたしは、最初の数日、夫の実家に滞在したが、日本の家族が到着した初日は、このインド国際センターに宿泊したのだった。

義姉スジャータの夫、ラグヴァンは優れたサイエンティストであるが、その父親のヴァラダラジャン博士は、更に高名で、久しくインド国際センターの理事を務めていた。インド国際センターの礎石が、53年前に、当時皇太子だった天皇陛下によって施されたなど、日本との関わりが深い場所であることから、日本の家族を歓迎し、ここに宿を取ってくれたのだった。

しかし、非常に申し上げにくいことであったが、その宿泊施設は、あまりにも「オールドスタイル」だった。なんというか、数十年に亘って時間が止まってしまったかのような、つまり質素な宿だったのである。

折しも、結婚式は7月。デリーの7月とは、過激に蒸し暑い時期である。誰も結婚式など挙げない季節である。恰幅よく元気そうには見えるが、当時、父は末期の肺がんを告知されてのち、抗がん剤治療で復活したばかりであった。家族の体調を鑑みれば、快適なホテルに滞在して欲しいと思い、インド国際センターには1泊だけして、市井のホテルに移動したのだった。

結婚にまつわるイヴェントは、都合4日間に亘り、毎晩のように行われたが、2日目、伯父の主催によってハビタットセンターで行われたレセプションでは、初めて大勢の身近な親戚やファミリーフレンドと対面した。その際、ヴァラダラジャン博士とゆっくりお話ししたのだが、彼は、日本で開催された世界科学者会議に幾度か足を運び、その際には、天皇陛下とお言葉を交わす機会があったという。

今回の天皇のご訪問にも森喜朗元首相は同行されていたが、その科学者会議の際は森首相が在任中だったとのことで、面談された旨を披瀝された。親戚やファミリーフレンドの中には、ヴァラダラジャン博士だけでなく、外交で日本を訪れた人もいれば、日本の著名な財界人と懇意にしている人もいる。

まるで当然のように、「源氏物語は、全巻読破しましたよ」などという、アジア文学研究家の人からは、大学での専攻を尋ねられ、焦ったことを思い出す。「日本文学部日本文学科です」などと言おうものなら、いろいろと突っ込まれて恥を書くこと必至だ。

そういえば、久しくダディマが暮らしていた夫のニューデリーの実家の隣人は、インド人男性と日本人女性のご夫婦だった。その女性とダディマは非常に親しく、お互い伴侶に先立たれたことから、寂しさを慰め合ったものだと、ダディマはしばしば話してくれたものだ。

レセプションを主催してくれた伯父はといえば、祖父の代に築かれた鉄鋼会社と砂糖工場を運営しており、鉄鋼会社は日本企業との取引も多く、日本へも頻繁に訪れていた。ちなみに、その後、伯父の息子、即ち夫の従兄弟に引き継がれたそのISGECというその会社は、数年前、日立造船と合弁会社を設立するなど、益々日本との繋がりを深めている。

そんな次第で、インドの家族や親戚は、わたしが登場する遥か以前から、みなさんそれぞれに、日本との関わりが深かった。ゆえに本来、同じバックグラウンドの人との結婚が重視されるインドにあって、なんの反対もなく、むしろ好意的に国際結婚が実現したものと理解している。

……懐かしい12年前の写真を引っ張り出してみた。

●そして会場のホテルに到着。友人知人ら、みな、ちょっとおかしい。

会場となったホテル、タージ・コロマンデルには、3時半ごろには到着した。特にセキュリティが厳しいわけでもなく、やはり日章旗が掲げてあるでもなく、驚くほどに、「普通」である。こんなことでいいのだろうか、と訝しく思うほどに。

ホテルのロビーには、すでに招待客だと思われる日本人が相当数見られた。ロビーで顔見知りの人たちと挨拶を交わしているうちにも、次々に知り合いが到着する。

言葉を交わす友人らそれぞれに、地上から10センチくらい浮かんで歩いているような、なんとも「普通ではない」テンションだ。夕べは寝られなかったのよ〜、という方もいらっしゃる。

と、4時を過ぎたころ、ミューズ・クリエイションのメンバーでもあるバンガロールの友人が到着した。彼女曰く、今朝のフライト(スパイスジェット)が2時間遅れで出発したことから、ホテルで着替える時間がなかったため、空港から直行したとのこと。2時間も遅れるとは、なんというストレスフルな経験!

彼女は、フライトが遅れるとわかって、まずバンガロール空港でストッキングをはき、チェンナイの空港でスカートとブラウスを着替え、ホテルに到着してジャケットを羽織り靴を履くという「時間差作戦」をとられたとのことで、一見涼しげに登場されたが、しかし相当に、ハラハラされたことであろう。人ごとながら、胃が痛い。

その直後、友人夫妻がまさに「ストレスフル」な表情で到着。彼らもスパイスジェットに乗っていたらしい。妻の方は、まだ着替えもすませておらず、カジュアルな格好だ。

彼らは、このホテルに予約を入れているから、チェックインして着替えると言っていたようで、それを聞いた友人は、なぜブロックされているはずのこのホテルの予約がとれたのだろうといぶかしく思ったらしい。

が、蓋を開けてみれば、彼は間違って、「来年の12月5日」の予約をいれていたとのこと。なんということ!

……みんな、やっぱり、通常どおりの対応ができていない模様だ。

●会場で受付をすませ、説明会。絶妙のタイミングでお手洗いへ!!

午後5時。会場の入り口で入場手続きをする。招待状とパスポートを提示し、携帯電話をお預けする。会場では、チェンナイの日本国領事館の方が、非常に適切かつフレンドリーに、式次第を説明してくださる。

そして「これだけは、していただきたくないこと」として、写真撮影や録音、お手紙などをお渡しすること、そして握手をすることの3つを挙げられた。まったく異存はない。

会場にはいくつかの背の高い立食用の丸テーブルが設置されており、そのテーブルを囲むように、集まった人々が都市別に分かれて立つことになっていた。

チェンナイ、ハイダラバード、ケララ、ポンディチェリ、バンガロールと、南インド各都市から訪れたゲストは、総勢百数十名。

この茶会の目的は、「天皇皇后両陛下が在留邦人を御引見する」こととされていた。時間は約30分を予定されている。わたしのイメージとしては、各都市の代表の方々があらかじめ選ばれていたので、その方々とのみ、お言葉を交わされるのだろうと理解していた。

さて、諸々の説明が終わってからも、開始の6時までにはまだ、かなり時間がある。今のうちにお手洗いへ行こうと会場を離れ、ロビーを横切ってお手洗いへ。再び、会場へ戻ろうとしたとき、なんというタイミングか、ちょうどエントランスに、天皇皇后両陛下がご到着されたところだった。

主には関係者が出迎えていたその場に、偶然居合わせることができたわたしの幸運といったら! ちょうどわたしはエレベータの前あたりに立っていたのだが、両陛下はまさにそのエレベータで上階へ上がられるため、わたしの目の前を横切られた。その際、両陛下はわたしの方をご覧になった。

皇后陛下が口を開いて、わたしに対して、なにかお声をかけてくださるような御様子だったのを、警備の人に促されてエレベータにお乗りになられた。わたしは深くお辞儀をして、そのお姿を見送った。

その時点でもう、わたしは胸がいっぱいで、目頭が熱くなり、動悸が高まり、感動の極みであった。もう、十分。目を合わせていただいただけで、もう、幸せ。

お二人の存在感の、静かで穏やかでおやさしいにも関わらず、すさまじい威力。なんなのだろう、この圧倒的な存在感は……。


●招かれた人すべてが、ありがたい御交流のひとときを、いただけた。

6時に近くなったころ、招待客にワインやビール、ジュースなどのドリンクが振る舞われた。お茶会と言いながらも、状況は「カクテル」である。領事館の方々は、「どうぞみなさん、お召し上がりになってください」とお酒を勧められる。

まさか天皇皇后両陛下とお会いする前にアルコールを摂取するなど、想像だにしていなかったので、非常に驚く。取り敢えず、水のグラスを取って、喉を潤す。アルヴィンドは赤ワインを片手に、談笑している。さすがインド人。余裕である。

そしていよいよ、両陛下のご入場だ。服を着替えてからのこの数時間というもの、ずっと背筋を伸ばしての緊張状態が続いていたのだが、このときにはもう、肩の凝りがピークに達していた。

いや、正確には肩の凝りだけではない。20年前のドレスを着ていることをして、世間からは「体型が変わっていないのね」と言われたが、実は当時よりも体重は数キロ増えており、油断するとお腹の辺りがぼよよ〜んとなってしまうため、常に少々、お腹を凹ませていなければならなかったのだ。

そんな次第で、背筋を伸ばし、お腹を凹ませて、拍手をしながら両陛下をお迎えした。天皇陛下と皇后陛下は、お二人少し距離を置かれてお立ちになり、そこにご対面する形で、各都市から選ばれていたご夫妻が並んだ。

と、そのあと、招待客が急に、どどっと、その背後に並び始めた。わたしは一瞬事情がつかめず、ぼ〜っとしていた。アルヴィンドに「僕たちも並ぼう」と促されて最後尾に立った。

立ったあと、アルヴィンドが「僕たち、どうして並んでいるの?」というから、「どうしてだろうね」と、わたしもボケた返事をしたのだが、このときになってようやく、百数十名を超える招待客全員が、ひと言ずつ、お言葉を交わすことができるのだという事態を把握したのだった。

確かに領事館の方は「皆様全員に、お話をしていただきます」とおっしゃっていたが、それはなんというか、取り巻きのように我々が立ち、そこでランダムに、お二人がお声をかけるような形になるのだろうと思い込んでいたのだ。

新聞のレポートによると、今回の公式訪問におかれては、歓迎式典や市民との交流、在留邦人との茶会など、行事が多い日で7回、6日間で計22回というハードスケジュールをこなされていた。この茶会は、22回目、すなわちご帰国前の最後の行事であり、時間も押している模様である。それよりなにより、かように濃密なスケジュールをこなされたあとで、お疲れになっているのに違いないのである。

なにしろ、この日の午前中は、地元の公園を散策され、市民ら250名と交流をされている。その後、午後にはタミルナドゥ州の障害者協会を訪ね、心身に障害のある生徒らとの交流もされている。

多くの人々と交流することは、どれほどエネルギーを要することか。そのお力のすばらしさに感嘆する。驚くほどに新鮮で、輝かしい笑顔を放ちながら、一人一人に、やさしくお言葉をかけてくださるお二人。

なんということだろう。


●そしてついには皇后様と。アルヴィンドに至っては、握手まで!

時間が少ないにも関わらず、天皇陛下、皇后陛下、それぞれに、それぞれの招待客とじっくりお話をされている。遠目に見ているときには、声は聞こえないものの、お二人が積極的にお声をおかけになっている御様子がわかる。外遊の際、お二人は訪問国の歴史や文化などを事前にしっかりとお調べになるとのことだが、本当に幅広く多くのことをご存知であるのだということを、つぶさに拝見した。

わたしたちは後尾に立っていたことから、時間的にも無理かもしれないと思っていた。正直なところ、特にお話ししたい、お伝えしたいと思うことはなかった。むしろ、他の方々とお話する御様子を間近に見られるだけでも、いいと思っていた。が、ここにきて、やはりひと言ご挨拶をさせていただきたいという思いが強くなる。

ゆっくりとお話されるお二人を、領事館や、多分宮内庁の方であろうか、時間を気にして次の人に移るよう促していらっしゃる。こちらも、気が気ではない。

そしていよいよわたしたちの番が近づいたときにはもう、かなり終盤に近かったせいか、担当者の方がわたしたちを含めて3組の夫婦をまとめて、「こちらはバンガロールからいらした方です」と紹介をしてくださった。すると皇后陛下は、

「まあ、遠いところからわざわざありがとうございます。飛行機でいらっしゃったのですか?」と尋ねられる。と、隣のご夫婦が「いえ、車で◎時間かけて来ました」と返答。と、皇后陛下は、そのことに感謝を述べられた。

そして次の瞬間、わたしの方を見て、おっしゃったのだ。

「先ほど、お迎えしてくださった方ですよね。こちらで、なにをなさっているのですか?」

わたしのことを、きちんと覚えていてくださったのだ。なんという、有り難き幸せ! 

お時間をとってはいけないと、かなり早口で手短かに、自分がフリーランスのライターやレポーターとして日本にインドを紹介する仕事などをしていること、また日本人女性とともに慈善活動を行っていることをお伝えした。すると、

「すばらしい活動ですね。がんばってください」とのお言葉をくださった。もう、胸がいっぱいいっぱいだったが、ここでアルヴィンドも紹介しておかねばと、「彼は夫です、インド人です」と彼の背中を押した。

と、皇后陛下はアルヴィンドに向かって手を差し伸べられ、握手をしてくださったのだ。外国人特典!!!

アルヴィンドは、「ヨウコソ、インドへ」と、その部分だけ日本語で、あとは英語で「お目にかかれて光栄です」「お招きいただけて幸せです」と、同じようなことを繰り返していた。皇后陛下は、ずっとアルヴィンドの手を握ったまま、「遠くからわざわざありがとう」と、流暢な英語で声をかけてくださった。

遠くから来てくださったのは、天皇皇后両陛下、お二人の方である。が、我々を労ってくださる優しさには、本当に、打たれた。その後はもう、放心状態である。最後の招待客との対話を終えられたお二人を、再び拍手でお見送りする。

なお、会場には森元首相もいらしていた。森元首相は、日本ではほとんど報道されていないが、日印友好に尽力されているほか、ロシア連邦、アフリカ諸国や南アジア諸国などに対して、積極的な外交交渉を行い、国際連合内での発言力向上に貢献されていた。首相在任中は、外遊の数が非常に多かったという。外交に関して、まさに「縁の下の力持ち」のような存在感でいらっしゃるような気がしている。

さて、両陛下をお見送りしてのち、招待客みなそれぞれに、かなりおかしなテンションで、興奮を分かち合っていた。

アルヴィンドは、この場では多分ほぼ唯一、皇后陛下と握手をさせていただいたこともあり、他の人に自慢げに報告しては、「間接握手」の嵐にあっている。

「僕の掌は、やわらかくて握り心地がいいから、皇后陛下もずっと握っていてくれたんだろうなあ」と、お門違いな自己陶酔状態だ。

●一連の出来事を終えて、思うこと。

あの日から、数日が過ぎた。こうして、記録を綴ることで気持ちを整理しようと思ったが、経験を書き残すことはできても、自分自身の心の動きについては、実はまだ消化できていない。

果たして皇室とは、天皇陛下、皇后陛下とは、わたしにとって、いかなる存在なのか。なぜここまで無条件に、畏敬の念を抱き、尊ぶのか。

日本国憲法第1条は、天皇を日本国と日本国民統合の「象徴」と規定している。

象徴。その概念だけでは、説明がつかない。そもそも、特段皇室に関心があったわけでも、日ごろから両陛下に対して格別の念を抱いていたわけでもないわたしが、なぜこれほどまでに、心を奪われてしまう経験をしたのか。実は自分でも、よくわからないのだ。

これは、後天的な知識や経験によって育まれた感情というよりもむしろ、日本人として生まれた自分自身の遺伝子に組み込まれた、決して外部からの干渉を受けることのない確固たる本能、のようにさえ、思える。うまく表現できないが、自分の意思を超えた強い感情が、内部から沸き上がっていたように思うのだ。

両陛下の御活動や御人柄について、熟知しているわけでもなく、従っては「尊敬申し上げている」などと口にすることさえ軽率でおこがましいと思っている。にもかかわらず、この内なる熱狂は、いったいなんなのだろう。

日本人として、古事記や日本書紀を理解し、神道についての知識を得ておく必要もあるかもしれないと、今、思い至っている。

今回のことを通して、天皇皇后両陛下の御活動などをレポートする動画をいくつか見た。それらを見て初めて、いかにお二人が、外交にも力をいれていらしたかがつぶさにわかり、心の底から、深い感銘を受けた。以下の動画(宮内庁による)もそのひとつである。非常に長いものではあるが、すばらしい記録なので、お時間のある方には、ぜひご覧になることをお勧めする。

両陛下を見送りしのちの一枚。チェンナイの湿気のせいか、あるいは自らの興奮で熱気を発したせいか、まっすぐに整えていたはずの髪が、ぴんぴん跳ねている。ネックレスも歪んでいる。

皇后陛下に握手をしていただき、たいへんご機嫌な我が夫君。この経験を通して、日本人の天皇陛下や皇后陛下に対する畏敬の念についてを、身を以て理解したようである。