BANGALORE GUIDEBOOK バンガロール・ガイドブック
●永遠の夏。シンガポールの日本料理店にて(1989年)
バブル経済の最盛期、1988年に、わたしは大学を卒業し上京した。海外旅行のガイドブックを制作する編集プロダクションに職を得たわたしは、今であれば「ブラック」な労働環境のもと、無我夢中で働いていた。就職の半年後にして、台湾のガイドブックを制作すべく、彼の地を取材。初の海外取材先である台湾からの帰国後は、それまで以上に苛酷な仕事が待っていた。
寝ても覚めても編集作業に追われる日々が続いていたころ。新年明けてまもない寒い朝、昭和天皇崩御のニュースが届いた。昭和が終わり、翌日から平成がはじまった。バブル経済のピークを迎えていた当時の日本は、不自然に浮かれていた。街ゆく若い女性たちは、ワンレングスの長い髪にボディコンシャスなワンピース、高級ブランドのハンドバッグを携え煌びやかだ。安い衣類に身を包み、概ね疲労していたわたしにとって、そんな浮世の趨勢は、遠くから聞こえる太鼓の音のようだった。
そして平成元年、夏。
♪黄色と黒は勇気のしるし 24時間戦えますか!
ビジネスマーン ビジネスマーン ジャパニーズ、ビジネスマーン!
♪アタッシュケースに勇気のしるし はるか世界で戦えますか!
ビジネスマーン ビジネスマーン ジャパニーズ、ビジネスマーン!
時任三郎が軽快なリズムに乗って声高らかに歌うリゲインのコマーシャルソングは、ある種、働く日本人の精神を鼓舞し洗脳する、心理的効果があったのではないかと、今では思う。軍歌のようにさえ、聞こえる躍動感。煽られる感じ。今、当時のCMの動画を見つつ、こうして歌詞を書き写しながら、得体の知れない鳥肌が立つと同時に、一抹の感慨が襲う。
わたしも、日々、飲んでいたものだ。リゲイン。鉄骨飲料。ユンケル……。
さて、台湾のガイドブックが校了した直後、一息つくまもなく、シンガポールとマレーシアの取材を命じられた。どんなに多忙でも、海外出張に行けることは、うれしかった。取材前に不可欠なのは情報収集。書店や図書館で関連書籍を入手し、未知なる国の情報を得る。観光事情に関しては、都内にある各国の政府観光局を訪れ、地図やパンフレットなどを収集した。
シンガポールに関する知識がほとんどなかったわたしにとって、得られる情報すべてが新鮮だった。シンガポールもまた台湾同様、大日本帝国の影響を受けていた。シンガポールは1819年、イギリス東インド会社の書記官だった英国人トーマス・ラッフルズの上陸を契機に、大英帝国による植民地時代が始まった。
第二次世界大戦中の1942年に英国支配は終焉。代わって大東亜共栄圏の構築を目指す日本軍による占領が始まり、シンガポールは「昭南島」と改名された。シンガポールを象徴する高級ホテル「ラッフルズ・ホテル」は接収後、「昭南旅館」と呼ばれ、日本陸軍将校の宿舎となった。同国の日本統治は、1945年8月の日本の敗戦まで続き、以降は再び英国の支配下に戻った。完全に独立したのは1965年、わたしが生まれた年のことだ。
シンガポール取材は、年上の男性編集者と外部カメラマン2名の計4人が2班に分かれて行われた。シンガポールは、東京23区より少し大きいくらいの国土面積であることから、全容を把握しやすく、移動は比較的、楽だった。観光地やレストラン、ホテル、ショップなどを片っ端から取材した。
シンガポールでは目に映るものすべてが、日本と同じアジアの国とは思えぬ多様性に満ちていて、興味深かった。英国統治時代の影響を受けたコロニアル様式の白亜の建築物が目を引く一方で、漢方薬の香り漂うチャイナタウン、山積みの唐辛子やスパイスが店頭を賑わすリトルインディア、モスクからコーランの旋律が響くアラブ・ストリート……と万華鏡のような街並みに心を奪われた。当時は古びた建物ばかりで、それがエキゾチシズムをより強くしていた。香水の匂いが漂う、冷房の効いたショッピングモールが林立するオーチャードロードを歩くよりも遥かに楽しかった。
フランス、イタリア、スイス、ロシア、中国、インド、タイ、ヴェトナム、韓国、メキシコ、マレー系のニョニャ料理……と、世界各地の料理店の存在も、この国の多様性を物語っていた。ホウカーセンターと呼ばれる屋台街の喧騒、シーズンだったドリアンの強烈な匂いも記憶に鮮やかだ。英国統治時代の名残を映したハイティーがまた、魅力的だった。ランチとディナーの間のティータイムに、ケーキやスナックを楽しむ習慣だ。
さて、このときのシンガポール取材で、今でも心に深く刻まれているエピソードがある。
とある日本料理店を取材したときのことだ。ランチ営業を終え、傾き始めた陽光が差し込む店内で、従業員がカーペットに掃除機をかける中、黒いスーツに身を包んだ日本人の店長に話を聞いた。一通り取材を終えたあと、多分わたしは、「海外でのお仕事はたいへんですね」といったことを、口にしたのだと思う。すると彼は淡々と、話を始めた。彼は赴任当初、ローカル・スタッフが時間にルーズで、仕事が遅いことに不満を持っていた。事あるごとに従業員を叱責していたあるとき、マレー系マネージャーに言われたのだという。
「あなた方は数年間だけ、この暑い国で働いて、成果を出せればそれでいいでしょう。しかし、僕たちは生涯、永遠の夏の中で過ごすんです。あくせく働いては、いられません」
「永遠の夏」という言葉に、店長は、我に返った。自分たちの価値観を押し付けていたことを顧みる契機になり、諸々を改善したのだという。バブル経済の真っ只中。「行け行け! ドンドン」の趨勢に、違和感を覚えていた23歳のわたしの心に、「永遠の夏」のエピソードは、深く刻印された。
他者の経験であれど、自国の価値観を、ふりかざしてもうまくはいかないのだ、ということを、初めて実感した出来事だった。
●焼き餃子を巡る記憶。北京の中国料理店にて(1991年)
(2004年 ワシントンD.C.在住時に発行したメールマガジンの記事を転載)
世間では、「新興国」であり「発展途上国」であるとされるインド旅行から、わたしたちは「先進国」であり「超大国」の首都であるワシントンDCに戻ってきた。空港から自宅へのタクシーの道中、その広く、見晴らしの良い、美しいハイウェイをなめらかに走りながら、わたしは、自分がここに住んでいることさえもが、なにか夢の中のことのように思えた。
道は凸凹、都市の空気は悪く、街は汚く、喧騒に満ちたインド。無論、田舎の田園地帯はのどかで穏やかで、都市部のそれとは異なるが、いずれにせよ、至る所が「濃密」なインド。それに対し、この国の、なんという爽やかさ。淡泊さ。そして希薄さ。
わたしは、インド旅行中、しばしば自分の「価値観の場所」を定めるのに混乱した。物価の違い、貧富の差、生活水準……。
わたしは、子供のころこそ、まだまだ「発展途上国」だったはずの日本に育ったが、大人になってからは、すっかり「先進国」となった日本の価値観の中で生きてきた。そして、「先進国」とか「発展途上国」という概念を、気安く使ってきた。
昨今のわたしにはしかし、その、あくまでも「経済」もしくは「産業文明」においての尺度であり区別であるはずの「先進国 Developed」とか「発展途上国 Developing」といった括りが、世界規模で、さまざまな勘違いを育んでいるように思えてならない。
あくまでも「経済的」なはずの、その「優劣の基準」が、国全体の文化や、さらには人間個人個人の「質」にまで及んでいると、勘違いをしている「先進国の住民」が、米国をはじめ世界中に散らばっている気がするのである。
わたしの経験のなかで、それが顕著でわかりやすい例を挙げたい。それは約十年前、わたしがモンゴルでの一人旅を終え、日本に帰国すべく北京に戻り、空港の近くのホテルに宿泊していたときのことだ。
わたしはホテルの近くにある家族経営の小さな食堂で、一人、その店自慢の水餃子を食べたあと、店の従業員の女の子と親しくなり、筆談を交わしていた。道路脇にあるその食堂の料理はとてもおいしく、トラックやタクシーの運転手が常連客のようだった。
夜、昼とそこに通ったわたしが、今夜、街のホテルに移ると言ったら、家族揃って「うちへ泊まりにおいで」と誘ってくれ、団地住まいの彼らの家に1泊させてもらった経緯がある。
さて、わたしが食事を終えたころ、日本人の男性二人と、通訳の中国人女性が店に入ってきた。40代ほどの日本人男性が、通訳を通して、餃子を頼んだ。すると当然のように、店自慢の水餃子が出てきた。なにしろ、その店は水餃子の専門店だったのだから当然だ。するとその男は通訳を介して、従業員の女の子に言った。
「なんだこれは。俺は焼いた餃子が食べたいんだよ。カリッと焦げ目のついたヤツ。焼いたの持ってきてよ」
通訳は、戸惑う従業員に訳して伝えた。ほどなくして、焼かれた餃子が出てきた。それを見て、彼は言った。
「ああ、だめだよこれじゃ。全然うまそうに見えないだろ。餃子はちゃんと並べて焼かなきゃ。こんな風にバラバラじゃなくて」
通訳はまた、従業員に伝え、再び餃子の皿は下げられた。北京には、日本の中国料理店に出てくるのと同様、きれいに並んで香ばしく焼かれた餃子を出す店はもちろんある。しかし、中国では、水餃子や蒸し餃子が一般的で、焼き餃子を出さない店も多いのだ。
しかし、従業員は3度目にして、その男の言う「日本的な見栄えの餃子」を持ってきた。すると、その男は言った。
「そうそう、これだよこれ。俺たちはこの近くにある****(日本企業)で働いてるんだが、これから工場ができて日本人が増えるから、これをメニューに加えるように、って言ってくれ」
通訳は、なんと訳したか、知る術もない。
わたしは、怒りと恥ずかしさと悔しさで、鼓動が高まり、頭に血が上った。けれど、そのころのわたしには、その人に何かを言う勇気がなかった。それが、たまらなく情けなかった。10年過ぎたいまでも、まるで昨日のことのように、はっきりと思い出せるほど、それは印象的な出来事だった。
あの日本人の男は、例えば、イタリアのミラノのレストランで、
「これは俺が好きな、表参道のイタメシ屋のピザと違う。焼き直すように言ってくれ」
と言うだろうか。
「日本人旅行者がたくさん来るから、日本人に合うものをメニューに加えろ」
と言うだろうか。
あるいは、ニューヨークのダイナーで
「このハンバーガーは大きすぎる。トマトもタマネギも分厚すぎる! もっと薄くて食べやすいのを出せ」
と言うだろうか。
無論、インドのレストランで、「日本風のカレーを出せ」と言うことは考えられる。
ここで、細かいことを解説せずとも、お察しいただけると思うので、書かない。つまり、あの日の****のあの男性は、多くの、先進国に住む人々の、シンボルのようにも思えるのだ。遠い過去の時代から、繰り返される「支配される側」と「支配する側」の力関係。それによって発生する、個人レベルでの思い違いと勘違い。
その国で、働かされてもらっているにもかかわらず。その国で、稼がせてもらっているにもかかわらず。「来てやってる」くらいの横柄な態度で。お邪魔している国の、歴史や伝統、文化、習慣への敬意を払うどころか、やすやすと見下す。そんな態度で、その国の人が、あなたを尊敬するだろうか。久しく、いい関係を築き、いい仕事ができるだろうか。
わたし自身、米国や日本という「経済的な先進国」の一員として、自分自身の能力はさておき、他者を「評価」していることにも気がついた。そのことに気づいただけでも、今回の旅はいい経験だった。この先の人生、わたしの中でもさまざまな混乱が発生することになるだろうけれど、それを喜ばしいこととして受け止めようと思う。(1991年の出来事を、2004年に回想して記す)
●人の死に思う。異国に暮らし働くということ(2012年)
(わたしが、他者に対して「ややお節介」になる契機となった、ミューズ・クリエイション創設直前の出来事。2012年2月の記録)
ひとのいのちの、つよさ、はかなさ。
絶大なる強靭と、耐え難き脆さ。
その表裏一体を、思う。
たとえ疎ましがられても。人はときに、強く干渉し合うことも大切なのかもしれない。そんな思いを強めた、ここ1週間だった。このことについて、書き残しておくべきか否か、かなり迷った。しかし、「人に干渉することも大切だ」との思いを優先して、書くことに決めた。お読みになる方は、どうかわたしの言葉を曲解せず、まっすぐに読解していただけることを願う。
先週の日曜日。ジャパン・ハッバを終えたあと、自宅へ戻り、シャワーを浴び、一息ついた。庭に出て、沈み行く夕日を眺めながら少し散歩をしたあと、夕飯の準備をした。食事をすませたあと、ブログに記録を残した。そのときの心を覆い尽くしていた事柄以外の、事実を。疲れていたはずの日曜の夜。しかし夜中に何度も目が覚めた。身体は眠っているのに、頭だけが覚醒し、無為に思いを巡らせているような状況だった。
その知らせは、わたしが司会を担当したジャパン・ハッバの文化プログラムが始まって、数グループのパフォーマンスが終了したころに舞い込んだ。実行委員長のインド人女性が、舞台裏へ駆け込んできた。訃報があるので、会場にアナウンスし、黙祷を捧げたいとのことである。
「みなさん、少しお時間をください。先ほど、ジャパン・ハッバの実行委員の一人が、お亡くなりになられました。どうぞご起立され、2分間の黙祷をお願いします」
「え? どなたが亡くなったの?」
事情を全く知らなかったわたしは、舞台裏に控えていたスタッフの人たちに尋ねた。
「○○さん……」
年配の、インドの方だろうか……と勝手に想像をしていたわたしは、耳を疑った。
亡くなられたのは、バンガロール補習授業校の教師などをされていた、わたしと同世代の日本人女性だった。
わたしは、以前、彼女が一時帰国していた際に、2回ほど、代行で授業を担当したことがある。その経緯があり、その後、どこかでお会いした際に、簡単に挨拶を交わした。
先日行われた「さくら会」でお見かけした時にも、黙礼を交わしただけの、「知人」と呼ぶにも遠い、「顔見知りの人」であった。
とはいえ、異国の地に暮らす日本人同士である。直接の関わりがあったわけではないにせよ、それは心に迫る知らせであった。
舞台裏のスタッフたちは、多かれ少なかれ、みなそれぞれに彼女との関わり合いがある。黙祷を終えた後、舞台裏に戻ってワッと泣き出す実行委員長。茫然と顔を見合わせる日本人スタッフ。舞台では、パフォーマンスが進んでおり、滞っている場合ではない。今はともかく、何も考えずに先へ進めよう。
泣いていたはずの実行委員長は、たちまち慌ただしくどこかへ駆けて行き、わたしたちもまた、ステージの進行を続けた。「頭の中が白くなる」という表現があるが、まさにスタッフの頭の中は、靄に覆われたような白さに包まれていたはずだ。ともかくは現実の作業をすませようと、みな一生懸命だった。
その方の亡くなられた理由については、詳細を知らないわたしが綴るのは憚られる。ただ、周知の事実であることのみ記すならば。数カ月の間、体調が芳しくなく、無理が高じた結果、ということだ。彼女の生徒たちだった子供たちへの対応、そしてこれからの授業についても、考えを及ばせなければならないことが、たくさんありそうだ。
その方のご冥福を、お祈りします。
* * *
以下の文章は、彼女の死とは直接、関係のないことである。ただ、異国で暮らすということは、異国で疾患を患う、あるいは死する可能性があるということを、改めて目前に突きつけられた出来事だった。それに伴って、これまで常々思っていたことが、再び心の奥から浮上してきた。考えたくはないが、しかし不可避な事実について、異国での生活が15年を過ぎたわたしの思うところを、書き留めておこうと思う。
■たとえ疎ましがられても。人はときに、強く干渉し合うべきなのだ。
これは、異国在住云々とは関係ないこととして。たとえ「余計なお世話だ」と疎ましがられても、人は干渉し合うことも大切なのかもしれない、ということを痛感した。
わたしの身近にも、少なからず、いる。仕事がいっぱいいっぱいで、十分な休息をとることがままならず、常に身体の不調を訴えている人。以前なら、そういう人に関わり合わなければ、実態を知ることはなかった。しかし昨今では、Facebookなどを通して、その人の情報が自ずと目に入って来る。
わたしは、その類いの発言が多い人のコメントを、個人的に好まない。従っては、読まずにすむよう制限をかけた設定にしている。つまり、自ら関わり合いを拒否してきた。これからも、その姿勢をかえるつもりはない。しかし、一つだけ、考えを改めた。
万が一、その人の状態が「尋常ならない」と思えた時には、お節介を承知で、「病院に行くべき」「休息をとるべき」との提言を、少なくとも一度は、しようと。
もちろん、その人が家族と暮らしているなら、別である。一人暮らしで、身近に干渉する人があまりいないであろう場合において、のことである。人に干渉して、余計なお世話だと思われるのは面倒だ。だが、何をおいても、健康に関することだけは、話は別である。
■異国に暮らし、働くということは、決して簡単なことではない
これは、単身で、異国に長期間滞在をしている人たちに向けての、わたしなりの提言だ。同じ海外在住でも、会社のバックアップがある駐在員やその家族に対するものではない。
インターネットが誕生し、異国での様子がライヴで見られるようになり、更にはFacebookやツイッターを通して、世界のどこにいても、母国に近い「錯覚」に陥りやすくなった。しかし、ネットの中の世界は、「幻」だ。どんなに身近に感じても、異国は異国。母国とはまったく異なる生活環境と文化慣習とがある。日本のように「平和的」な環境で生まれ育った人間には、想像を絶する現実が潜んでいる国もある。
とにもかくにも、会社のバックアップがあるとないとでは、海外で働くという概念が全く異質なものになるということを、承知しておくべきである。異国で働くのは簡単だ。異国で暮らすのは難しくない。そんな言葉にのせられて、「日本がつまらないから」といった理由で海外に出ることを、わたしは勧めない。
そもそも、日本で一人前に働けない人間が、異国で一人前に働けるわけがない。日本で、それがたとえアルバイトであったとしても、社会に出てがっつりと働いた経験があった上で、異国に飛び出すのなら、それを否定するつもりはない。しかし、「日本は閉塞感がある」だの「日本では自分の力は発揮できない」だのといった母国を否定する延長線上に国外脱出を試みたところで、成功できた人がいたとしても、それは本当に、ごく稀なはずだ。
ニューヨーク在住時には、中途半端な志で渡米し、日本料理店などでアルバイトをし、不法滞在を続ける人たちを、たくさん見てきた。憧れてきたはずの土地に住みながら、日々、不平不満に満ちあふれ、腐っていた人たちの多かったことといったらない。
異国の地で、自分の活路を見出すことは、相応の心構えや気概が必要である。
わたしは、若い人たちはどんどん世界を見るべきだと思うし、旅をして、経験を積み、海外で力を発揮することを、むしろ支援する気持ちだ。ただ、それを実現するにあたっての、物理的、精神的な準備は、きちんとしておくべきだ。
●合法的に異国に滞在できる査証(ヴィザ)を取得、所持する。
●海外旅行傷害保険などの保険に入っておく。
●長期間滞在する人は、領事館に在留届を提出する。
●日本の家族や友人に、居場所や連絡先をきちんと伝えておく。
●旅先、滞在先での身近な人に、日本の家族の連絡先を伝えておく。
最低でも、上記の手続きは、すませておくべきだ。
自分は人の世話にはならない。その考えは、驕りでしかない。日本ではそれも可能だろうが、異国ではそうはいかない。異国で病に倒れたり、あるいは没した場合、領事館をはじめ、さまざまな人たちの力を借りねばならない。ご家族を日本から呼び寄せ、然るべき諸々の手続きを行い、そして遺体を日本へと送る。
そのプロセスにおいて関わる人たちの多さ、そしてご家族にかかるであろう精神的、経済的負担の大きさは、いかばかりか。「そんなことまで考えてられないよ」と言うなかれ。人はいつ、なにが起こるかわからない。せめて海外旅行傷害保険に入っていれば、経済的負担は免れることができる。それらが準備できないほどの貧乏旅行や海外滞在は、すべきではない。
■異国にもさまざまあれど。異文化に対して謙虚であれ。
更にいえば、インドでは、メディアで報道されていないところで、行方不明者となった旅行者がたくさんいる。人知れず、行方不明者のご家族のお手伝いをしている人たちも、少なくない。わたしとて、旅の多い歳月を送ってきた。夫と出会う前は、プライヴェートの旅はほぼ100%、一人旅だった。それなりに危険な目にも遭ったし、際どい思いもした。騙されたこともある。自分が無茶をしたことに対する反省点は、たくさんある。だからこそ、しつこく、書いている。
旅先では、自分が日ごろ持っていたはずの心の軸がゆらぎ、正常な判断ができなくなる場合がある。なにしろ異国では、母国の常識が通用しないわけだから、その事態は不測ではない。異文化の渦の中に巻き込まれている時には、まさか、と思うところで、騙されることがある。それが致命傷になることも、ある。だからこそ、気を緩めちゃならないのだ。常に異国に対しては、あらゆる側面において「謙虚な心」を失ってはならない。
こうして書きながら、実は自分自身に対しても、言い聞かせている。郷に入れば郷に従え。渦中では、異邦人である自分が異質なのだということを、自覚すべし。
●ハドソン川を渡れなかった駐在員夫人たち(1999年)
歳を重ね、経験を積んだからこそ、物事の見方を改めたり、他者の立場を慮ったり、やさしい気持ちでいようと思い至る点は、多々ある。
今から20年以上前。30代前半、米国に暮らし始めた当初のわたしは、かなりの「未熟者」であった。自分のキャリアの構築が最優先。イヴェントなどで、日本の駐在員夫人と顔を合わせることはあったが、交流は最低限だった。過去の自分の無礼を承知で書けば、彼女たちは、「自分とは異質の価値観を持つ、独特のヒエラルキーに拘束された人々」という先入観を持っていた。
インターネットの普及以前。駐在員夫人の暮らしぶりについては、ごく限られた数冊の書籍、そして噂話によって聞きかじっていた。そのいずれをもして、わたしには「相容れない」と感じた。ある本には、ご丁寧にも、駐在員夫人のヒエラルキー・ピラミッドが図解されていた。大使館や領事館を頂点に、金融・広告業界と続くそのピラミッドの「底辺」は自営業だった。わたしだ。
「底辺上等!」と、無駄に躍起になった。
ちなみにその後、インド移住当初にお会いした、デリー在住の日本人女性からも、同じような話を聞いた。
インド人を伴侶にもつ女性は「底辺」なのだという。
またしても、底辺。「底辺上等!」である。
というか、実にばかばかしい。どうでもいい。
さて、限られた情報を通して、駐在員夫人に対する先入観を抱えていたわたしも、ニューヨークで起業し、フリーペーパー『muse new york』(季刊誌)を発行するようになってからは、心境が変わった。そもそも、わたしの特技は「日本語」で、自身の取材力を以って活字に表現できるのは日本の冊子である。その対象となる読者は、ニューヨーク在住の日本人。主には駐在員とその家族だ。自分が発信するものを、彼らはどう受け止めてくれるのだろう。それは未知数であった。
『muse new york』は1万部を刷り、マンハッタンの日系食料品店やレストランをはじめ、日本人が多く暮らすニュージャージーのフォートリーや、グリニッジといった郊外の日系食料品店へ配達し、店頭に置かせてもらった。
『muse new york』には、アンケート用のはがきをつけておいた。毎号、何十通ものはがきが送られてきた。切手が貼られたその手書きのハガキには、異郷で暮らす人々の、小さなつぶやきが鏤められている。わずか数行の文章に、個々人の個性が滲んでいるようにも思え、今読み返しても、胸が熱くなる。
十把一絡げに、ステロタイプで人を見ていたことを省みる日々でもあった。
あるとき、『muse new york』の愛読者で、ヴォランティアで料理教室を開いているという駐在員夫人から、フォートリーまで取材に来て欲しいとの依頼を受けた。料理教室のメンバーとクリスマス会を催すとのことである。ハドソン川を挟んで西側に位置するフォートリーへは、ジョージワシントン・ブリッジを渡って、赴く。
カメラを片手に、指定のアパートメントに伺えば、数十名の奥様方がテーブルいっぱいの料理を囲んでいる。料理の一つ一つに、持参者の名前が添えられている。参加者は、料理を自分の皿に取りつつ、口にし、しかし明らかに、各々のボスと思しき、特定の人物の料理を褒める。過剰に褒める。本音の見えない言葉が宙を行き交っている。
だめだ。ついていけない。こんな環境、わたしにはやっぱり無理だ!
一通りの料理をいただき、軽く取材をしたあと、わたしはキッチンに退散した。すると、2人の若い女性が、わたしのところへ来た。無論、わたしも当時は30代前半だったから、彼女たちは同世代だったと思う。
彼女たちは、数カ月前にフォートリーへ赴任して来たが、日常的に日本人のコミュニティに「拘束されているような気がして」いるという。子どもがいるご夫人は、自分で車を運転して、2時過ぎには子どもを学校へ迎えに行かねばならないなど、慣れない土地でたいへんな思いをしているらしいが、彼女たちは子どもがおらず、時間がある。だから、たまにはマンハッタンへ遊びに行きたいが、遊びに行くと必ず誰かから「あなた、このあいだマンハッタンに行ってたでしょ?」と、嫌味っぽく言われるという。
いやいやいや、誰がどこで見張っているの? 誰か、ジョージワシントン・ブリッジの料金所に張り込んで偵察してるの? 笑いながらこちらが軽く返しても、彼女たちの顔つきは神妙だ。
ニュージャージー州とはいえ、フォートリーは、ハドソン川を挟んでマンハッタンの対岸にある。マンハッタンは、目の前に広がる大都会だ。しかし、少なくとも、その場にいた駐在員夫人の大半は「マンハッタンへは、年に数回しか行かない」のだという。
一方、ボス格の夫人からゴルフに誘われれば、決して断れない。カルガモの親子よろしく、ボスの夫人の車に随行して、ゴルフ場へ出かけるのだという。移住当初はお世話にもなっただろうし、楽しければそれもいいと思う。しかし、それが苦痛になっているようで、気の毒に思えた。
わたしは、彼女たちに名刺を渡した。「いつでも遊びにおいでよ! わたしはひとり暮らしだから、ランチでもディナーでも、いつでも付き合えるよ」と言った。
「絶対、連絡しますね!」
と笑顔で答えてくれた彼女たち。しかし、彼女たちと再会することはなかった。
駐在員夫人とは、夫の仕事をサポートするべく、帯同してくる立場であるのはわかる。ゆえに、それぞれの会社の上司や部下の関係、取引先云々、付き合いやしがらみはあるだろう。もちろん、最低限の礼儀はわきまえるべきだと思う。しかし、日常的に、自由な行動が制限されるほどの「過剰な上下関係と、圧迫感のある人間関係」は、いかにも不健全だ。
駐在員社会を巡るネガティヴな話は、枚挙にいとまがないほど、耳にしてきた。噂話には尾ひれはひれがついて、面白おかしく、過激な内容を伴って、流布される。どこまでが真実なのか、本当のところは、よくわからない。みんな、それぞれの立場でたいへんであるには、違いなかった。
そんなわたしが、インド移住後、2012年、主には駐在員夫人をメンバーとしたミューズ・クリエイションを創設した。その背景にはいくつかの理由があったが、それまで自分が歩いてきた「独立独行の時代」を思うと、今でも奇妙な気がする。
創設を決定した理由はさまざまにある。
主には「前向きな理由」が中心だが、思い返せば「超むかついた出来事」もまた、契機となっていた。ミューズ・クリエイション以前、わたしは一人で、「ミューズ・ソーシャルサーヴィス」という活動をしていた。たまにチャリティ・ティーパーティを開いて駐在員夫人を招き、参加費を募り、セミナーをし、不用品を回収したりして、慈善団体へ寄付すべく、訪問していた。
バンガロールの婦人会であるところの「さくら会」にヴォランティアの活動がなかったことも、自分で活動を始めた理由の一つだ。
なかには、慈善団体へ一緒に同行してくれる人もいた。そんなわたしの活動を、ブログを通して見て知った、とある駐在員夫人が、何かしら悪評を流しているということを、しばしば人づてに聞かされるようになった。
「あれは本当のヴォランティア活動ではない」云々。
そもそも、「ヴォランティア精神のかけらもなかった」わたしである。ゆえに「本当のヴォランティア活動」がどんなものかは知らん。知らんが、自分にできることを、誠意を以て、やっている。とやかく言われる筋合いはない。
わたしは善人めいたことはやっているが、その実、善人というわけでも、人間ができているわけでもないので、普通にむかつく。憤慨する。
面識のない人から、鬱陶しい噂を流されることは、初めてのことではなかったが、そもそも、その噂は本当なのか。尾ひれはひれが付いていないか? 真偽を確かめるべく、その人に会う機会があったときに、あえて自ら挨拶をしにいった。詳細は割愛するが、そのときに、ずいぶんと理不尽なことを言われた。その理不尽は、わたしに「つべこべ言われる余地がないくらい、ちゃんとやってやるわ!」と、一念発起させる契機になった。思い返せばむかつくが、まあ、わたしの人生においては、意義のある出来事のひとつだった。
毎週金曜日をオープンハウスにしてメンバーに活動の場を提供し、なんだかんだと間断なく、イヴェントを企画実施している。来る人は拒まず、去る人は追わず(追えず)、この7年間のあいだにも、200名を超える人たちと、ともに活動をしてきた。こんなに続くとは、正直なところ、自分でも思わなかった。
一人では決してできないことを、みなで力を合わせると実現できるということを、わたしは今でも、学び続けている。わたし自身、若いころには、ほとんどやったことのなかった「歌」や「踊り」に挑戦するなど、楽しみも増えた。
メンバーもまたそれぞれに、これまで知らなかった自分の好きなことや才能に気づく契機を得られている人も少なくない。運営者自ら書き連ねるのもなんだが、「ミューズ・クリエイションのいいところ」を挙げると、本当にたくさんあると思う。メンバーに、書き連ねてほしいくらいだ。
何よりも、夫の帯同で赴任すべく、自身のキャリアを中断し、赴任先で初めて「専業主婦」となり、居心地の悪い思いをしている人たちに、何らかの自己実現の場を提供したいとの思いもある。この件については、気持ちが入りすぎて、書き始めると更に長くなるので、割愛。
さて、ミューズ・クリエイションの紹介ページに「ルール」の項目がある。そこに、以下のように記している。
ミューズ・クリエイションは、「創造すること」を軸に、ポジティヴで楽しい時間をシェアすることを一つの目的としています。インドの生活においては不満も多く、また狭い日本人コミュニティの中では、他者の中傷を含む噂話も錯綜しやすいことだと思います。しかし、そのどちらをもに煩わされない、楽しく有意義な時間を過ごしていただくことを最優先に考えています。同じ日本人同士とはいえ、年齢層も幅広く、バックグラウンドの異なる人たちが集まっての活動です。ご赴任、ご帰任と、メンバーの入れ替わりも多く、不安定な環境の中、しかし常に居心地のよい活動を続けられる環境づくりを目指しています。この点にご賛同いただける方のみ、参加していただきたく、よろしくお願いします。
わたしのミューズ・クリエイションに対する願いは、ここに集約されている。慈善団体への貢献、という大前提のもと、しかし本当に大切なのは、メンバーが有意義な時間を過ごすことだ。
「仲良しサークル」を目指しているのではない。自立した女性たちが、互いを尊重しあって活動できる場だ。その結果、お互いが親しくなって、いい関係を築き合えれば、すばらしい。間違っても、親しくなりすぎるがあまり、礼を失して過干渉になり、互いを中傷し合うようなことだけは、ミューズ・クリエイションにおいては、あって欲しくない。法度だ。
一時帰国や、旅行先から、少しブルーな気持ちでバンガロールに戻ってきたときに、笑顔で「ただいま」「おかえり」が、言い合える場所。
そして願わくば、あのとき「ハドソン川を渡れなかった駐在員夫人たち」のような心境にある人たちにも、ミューズ・クリエイションのドアを叩いて欲しいと願う。
……気がつけば、わたしもそれなりに、歳を重ねた。歳月の流れと経験の蓄積は、人を変えると、自分を省みながら思う。10年後のわたしは、この記録を読んで、果たして何を思うだろう。楽しみだ。(2019年4月)
異国に暮らし働くことについて
坂田の個人的な体験と、伴う私見
わたしは、1988年に海外旅行誌の編集者となり、以来、海外取材を重ねてきました。1996年に米国へ移住してからは、20年以上に亘り、海外に暮らす日本人関わり、その心の問題に、思いを巡らせる機会がありました。思い返せばわたし自身、経験を重ねるに伴い、物事の見方や考え方が変化してきたように思います。私事ながら、この項では、今のわたしがミューズ・クリエイションを創設したり、日本人の駐在員夫人と活動を共にしはじめた契機となった出来事のいくつかを、書き残しておきます。
CONTENTS
●永遠の夏。シンガポールの日本料理店にて(1989年)
●焼き餃子を巡る記憶。北京の中国料理店にて(1991年)
●人の死に思う。異国に暮らし働くということ(2012年)
●ハドソン川を渡れなかった駐在員夫人たち(1999年)