BANGALORE GUIDEBOOK バンガロール・ガイドブック

(以下、2014年4月執筆の原稿を一部、加筆修正して転載)


皆さんがこの記事を目にするころは、すでにインド総選挙(下院選)の結果が出ているかもしれない。有権者8億人超、世界最大の国政選挙の投票は、4月7日から約5週間、地方ごとに9回にわけて実施される。この選挙では、BJP(インド人民党)が、コングレス(インド国民会議派)を破り、10年ぶりに政権を握る可能性が高いことから、今後のインドの趨勢に大きな影響を与える総選挙として、海外メディアの関心も集まっている。そこで今回は、インドの二大政党、特にコングレスの歴史をたどりつつ、インドの政治的背景を紐解きたい。



●コングレスの歴史は、英国統治時代に遡る


通称「コングレス」と呼ばれるインド国民会議派 (Indian National Congress) が産声を上げたのは、インドが英国統治下にあった1885年。当初は、インド総督下で「増えつつある反英勢力の安全弁」としての役割を果たす存在として誕生したが、徐々にインドの自治独立を目指す活動が強まっていった。


初代首相のジャワハルラール・ネルー、副首相のサルダール・パテール、日本とも縁のある独立運動家のスバス・チャンドラ・ボース、パキスタン建国の父であるムハンマド・アリー・ジンナー、そして後に加わったマハトマ・ガンディー(本名はモハンダス・カラムチャンド・ガンディー)は、独立運動に関わるコングレスの主要なメンバーだった。



●「一つのインド」は実現せず、印パ分離独立


1947年のインド独立に至る道のりは、実に険しい。 数百年に及んだ英国によるインド亜大陸の統治が終焉しようとしていたとき、統一インドの実現・維持を、誰もが不可能だと予測したという。そもそも英国統治以前、インドという一つの国が存在していたわけではなかった。この亜大陸には、500を優に超える大小の藩王国が共存していた。生活文化や主要な宗教の異なる無数の藩が、一つとなって協調することなど、夢物語のようでもあったのだ。


しかしガンディーは、統一インドの実現を願い、長きに亘り尽力した。藩王らの説得に際しては、「インドの鉄の男」あるいは「インドのビスマルク」とも呼ばれたパテールの巧みな交渉力が功を奏した。しかし結果的にガンディーは、イスラム教指導者のジンナーからの同意を得られなかった。ジンナーは、多数派であるヒンドゥー教の勢力に制圧されることを懸念し、パキスタンの分離を望んだのだ。英領インド最後の総督であるマウントバッテンも、印パ分離独立に合意していた。


分離独立にあたり、イスラム教徒が多いパンジャブ地方とベンガル地方が分断されることになった。現パキスタンは「西パキスタン」として、 現バングラデシュは、西パキスタンから1,800kmも離れた飛び地国家「東パキスタン」として独立したのだ。なお、第三次印パ戦争後の1971年、 東パキスタンはバングラデシュとして独立している。


この印パ間の国境をして、インドの人々は「パーティション (Partition)」と呼ぶ。この分割線が国民に公表されたのは、1947年8月15日独立直後のことだった。故郷の分断を突きつけられた人々は、混乱に陥った。ヒンドゥー、イスラム教徒だけでなく、スィク教徒にとっても受け入れ難い現実だった。イスラム教徒は東西パキスタン側に、ヒンドゥー及びスィク教徒はインド側に、徒歩や列車で強制移動させられる「大移住」が展開された。その数1,000万人以上。西へ東へと移動する大きな二つの隊列は、時に衝突し暴動が発生。各地で虐殺が起こり、死者は100万人を超えたとされる。なお周知の通り、カシミール地方の領有を巡っては、未だに印パ間の軋轢が残されている。サティヤグラハ(真理の力)をスローガンに、「非暴力」を訴えて続けてきたガンディーにとって、分離独立は悲劇だった。独立の翌年、 ガンディーは、彼をイスラム教徒に寛大すぎるとみるヒンドゥー原理主義者によって暗殺された。



●偶然ではない。インド独立記念日と日本の終戦記念日


インドには、国家を祝する日として、1月26日の共和国記念日と8月15日の独立記念日がある。独立前の1930年1月26日、コングレスはこの日をインドの独立を支持する全国的な集会日に決定。 以来、 コングレスの支持者は、1月26日を独立記念日として祝賀してきた。


一方の8月15日。日本の終戦記念日と同じ日なのは偶然ではない。


英領インド最後の総督であるマウントバッテンは、1947年2月に家族とともにインドに赴任した。彼の任務は「1948年6月までにインドを独立させること」であった。しかし、彼は着任当初から、独立を急いでいた。


「ひとつのインド」での独立を目指すコングレス(国民会議派)のネルーやパテール、そしてガンディー、その他の首脳、そして彼の妻ですら、「焦るべきではない」と提言していたにも関わらず。


彼はかつて、ビルマ戦線などで日本軍に打ちのめされたことから、日本を深く、忌み嫌っていた。その日本が敗戦した日、即ち8月15日に、インドの独立を重ね合わせたかったからだという。この経緯は、『インド現代史』 ("INDIA AFTER GANDHI"の日本語訳)に記されている。



●コングレスを牛耳るネルー・ガンディー王朝


1947年の独立以来、一時期を除き政権を握り続けてきたコングレス。初代ジャワハルラール・ネルー首相から続く一族をして「ネルー・ガンディー王朝」と呼ばれるが、このガンディー家とマハトマ・ガンディーに血縁はない。ネルーの娘、インディラの結婚相手がフェロズ・ガンディーであったことから、彼女はインディラ・ガンディーと名乗ることになった。しかしこの史実には裏がある。フェロズはそもそも「フェロズ・カーン」という名前だったのを、ネルーが敢えて「ガンディー」に改姓させたというのだ。その理由に関しては「ネルーがガンディーを敬愛していたから」など、諸説あるが、いずれにせよ、奇妙かつ紛らわしい話ではある。


インディラ・ガンディーはやがて首相の座に就くが、スィク教過激派を排除すべく「ブルースター作戦」を実行した結果、1984年、スィク教徒に暗殺される。彼女の死後、首相の座に就いたのは、政治に関心を持っていなかった長男のラジーヴ・ガンディーであった。本来、次男のサンジャイが後継者と目されていたが、飛行機事故で他界したことからラジーヴが政界入りしていた。


彼は政治スキャンダルが原因で1989年の選挙で敗北したが、1991年、スリランカにおけるLTTE(タミル・イーラム解放のトラ)闘争に介入した復讐として、女性自爆者により暗殺される。ラジーヴ・ガンディーの妻は、英国留学時代に出会ったイタリア人女性、現在コングレスの総裁を務めているソニア・ガンディーだ。彼女は総裁ではあるが、インド人ではないことなどから、マンモハン・シンが首相となった経緯がある。



●BJPは、10年ぶりに政権を奪還するのか?

 

1947年の独立以来、コングレスの一党優位体制だったが、ヒンドゥー至上主義の潮流も生まれていた。1980年に発足した Bharatiya Janata Party(インド人民党)は、1998年から2004年までの6年間、ヴァジパイ首相のもと政権を握っていた。当時、インドは高度経済成長を実現、BJPは、“India Shining”をスローガンに政権維持を目指したが、経済成長から取り残された貧困層からの支持を得られなかったなどの理由から、下野するに至った。


その後、コングレス主導の連立政権下にあったこの10年。汚職まみれで私腹を肥やす政治家があふれ、インフレーションが著しい一方、経済成長率は低下、生活インフラストラクチャーの不備、子供の教育の不全、貧富の差の拡大など、社会問題は改善されないままである。この趨勢をして、今回の総選挙では、ナレンドラ・モディ率いるBJPが勝利するであろうと見られている。

 

BJPが優勢だと予測される理由のひとつに、対抗馬であるコングレスのラーフル・ガンディーの「頼りなさ」も挙げられる。ラジーヴとソニアの息子である彼は、モディに比べて政治経験も浅い。


だが、もしBJPが勝利し、モディ首相が誕生したら、それはそれで懸念がある。グジャラート州知事である彼は、過去にイスラム教徒との大きな軋轢を生む事態を引き起こしており、彼に反発するイスラム教徒が少なくないからだ。いずれの結果にせよ、順風満帆に航海が進むとは思えぬ巨大国家インドの潮流。選挙権のない我々異邦人は、この国の行く末を、客観的に見守るしかない。


この項に関する詳細は、坂田の個人ブログに、おすすめの映画や書籍情報と共に長々と記しているので、関心のある方は、お読みください。


●日本とインド。命運の8月15日を巡る覚え書きなど。

インド・パキスタン分離独立の背景と

インドの二大政党を知る


2019年4月中旬現在、インドは5年に一度の総選挙の真っ只中です。モディ首相率いるBJPが続投するのか、あるいはコングレスが返り咲くのか。選挙結果が出る前に、ここでは坂田が5年前に、フリーペーパーの『シバンス』に寄稿した記事に一部加筆・修正して、転載します。古い記事ながらも、十分に参考になる内容かと思いますので、ぜひお読みください。

CONTENTS


●コングレスの歴史は、英国統治時代に遡る

●「一つのインド」は実現せず、印パ分離独立

●偶然ではない。インド独立記念日と日本の終戦記念日

●コングレスを牛耳るネルー・ガンディー王朝

●BJPは、10年ぶりに政権を奪還するのか?